『ウィキペディア日本語版』による解説
浜崎 真二(はまさき しんじ、 1901年(明治34年)12月10日 - 1981年(昭和56年)5月6日)は、広島県呉市三津田出身。大正から昭和中期(1920年代-1960年代前半)のプロ野球選手(投手)・プロ野球監督。実弟・浜崎忠治も鶴岡一人らと広島商業で夏春連覇した時の選手(投手・内野手)。のち中日ドラゴンズにも在籍した。
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元プロ野球選手(投手)、監督。
1901年(明治34年)12月10日、広島県呉市に生まれる。
幼い頃から野球をはじめ、広島商業に入学するが当時、同校はさほど強くなく、神戸商業に転校した。1922年(大正11年)、第8回夏の全国中等学校優勝野球大会(鳴尾球場)に3番、エースとして出場。決勝戦で和歌山中学と対戦し、逆転負けで準優勝。その後、慶応大学に進学後、エースとして活躍。慶応の米国遠征でも米チームを抑えるピッチング
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元プロ野球選手(投手)、監督。
1901年(明治34年)12月10日、広島県呉市に生まれる。
幼い頃から野球をはじめ、広島商業に入学するが当時、同校はさほど強くなく、神戸商業に転校した。1922年(大正11年)、第8回夏の全国中等学校優勝野球大会(鳴尾球場)に3番、エースとして出場。決勝戦で和歌山中学と対戦し、逆転負けで準優勝。その後、慶応大学に進学後、エースとして活躍。慶応の米国遠征でも米チームを抑えるピッチングをみせた。昭和6年(1931年)、昭和9年(1934年)と二度来日したジョー・ディマジオ、ベーブ・ルース(昭和9年のみ)らの米大リーグ選抜チームと対戦する日本選抜チームにも選出された。満州鉄道倶楽部でも41歳ながらエースとして4都市対抗野球に出場し全国制覇。
1947年(昭和22年)には45歳で阪急ブレーブスに入団、同年のシーズン途中から監督を兼任した。1950年(昭和25年)5月7日には48歳4ヶ月の日本プロ野球史上最年長勝利を記録した。同年11月5日には消化試合の余興として、対戦相手の毎日オリオンズ監督湯浅禎夫(48歳1ヶ月)と先発投手として投げ合い、敗戦投手となった。この時の48歳10ヶ月での出場は日本プロ野球最年長記録である。
1954年(昭和29年)高橋ユニオンズの創設に伴い監督に就任。しかし、トンボユニオンズ監督と合わせた2年間で記録的な敗戦を記録しシーズン途中で退任した。1978年(昭和53年)、野球殿堂入り。1981年(昭和56年)5月6日死去。享年79。
通算成績は30試合、5勝5敗(完投0、105投球回、防御率4.03)
監督通算成績
1219試合 535勝 639敗 29分 勝率.456
品詞区分:指定なし
よみがな:はまさきしんじ