『ウィキペディア日本語版』による解説
豊臣 秀頼/羽柴 秀頼(とよとみのひでより、とよとみ ひでより/はしば ひでより、文禄2年8月3日〔1593年8月29日〕 - 慶長20年5月8日〔1615年6月4日〕)は、天正時代から江戸時代初期の大名。
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1593年??1615年
父は豊臣秀吉。母は淀殿。大坂城で誕生する。幼名は拾。
秀頼の誕生後、秀吉は当時関白だった豊臣秀次を捕らえて切腹させた。よって、秀頼が豊臣家世継ぎであることが明確になった。
程なく秀吉は病死するが、最期まで秀頼を心配していた。
秀吉の遺言で前田利家が秀頼の後見役になるが、利家はすぐに病死してしまう。関ヶ原の合戦では、石田三成方の西軍が大坂城に入城したが、秀頼が大坂から外へ出
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1593年~1615年
父は豊臣秀吉。母は淀殿。大坂城で誕生する。幼名は拾。
秀頼の誕生後、秀吉は当時関白だった豊臣秀次を捕らえて切腹させた。よって、秀頼が豊臣家世継ぎであることが明確になった。
程なく秀吉は病死するが、最期まで秀頼を心配していた。
秀吉の遺言で前田利家が秀頼の後見役になるが、利家はすぐに病死してしまう。関ヶ原の合戦では、石田三成方の西軍が大坂城に入城したが、秀頼が大坂から外へ出陣することはなかった。関ヶ原の合戦の後、徳川家康の手によって豊臣家の領土は摂津・河内・和泉65万石にまで減らされた。
秀頼の官位は内大臣・右大臣と昇進したが、家康は征夷大将軍として江戸幕府を開き、豊臣家の天下は失われた。大坂城に登城する諸大名もめっきり減った。
1605年に家康が秀忠に将軍職を譲った際、秀頼に上洛を促した。しかし、豊臣家は拒絶した。家康が折れて、松平忠輝を将軍名代として大坂城に派遣することでおさめた。
しかし1611年、秀頼は徳川家康の要請で上洛した。加藤清正・浅野幸長・織田有楽らが、秀頼を護衛した。多くの大名が詰める中、二条城で会見した。
方広寺鐘銘事件をきっかけに、豊臣家と徳川家が対立。親徳川派だった片桐且元・貞隆兄弟が大坂城から追放された。秀頼は、諸大名・元大名に書状を乱発して兵を集めた。主な大名は、豊臣恩顧の大名も含めて大坂城に駆けつけなかった。
しかし、元大名の長宗我部盛親や真田幸村などは駆けつけた。大坂城には10万の兵が集結した。
大坂冬の陣が勃発して戦いになったが、和睦が結ばれた。秀頼は和睦に反対したが、淀殿が強く主張したといわれている。徳川家は、大坂城の外堀だけを埋める和睦を無視して、ほぼ全ての堀を埋めてしまった。こうして大坂夏の陣が勃発したが、大坂城は裸城同然であり、兵力劣勢の豊臣軍は苦戦を強いられた。
真田幸村は秀頼出陣を望んだが、実現しなかった。真田幸村・毛利勝永・大野治房の果敢な突撃もあったが、豊臣軍勝利には結びつかなかった。大坂城は炎上し、秀頼は淀殿とともに自刃した。秀頼には1男1女がいた。1人息子の国松は、後に斬首された。ただ娘(天秀尼)は助命され、鎌倉・東慶寺に入った。
品詞区分:指定なし
よみがな:とよとみひでより